NPOに法人なんていらない、助成金もいらない

郷好文の“うふふ”マーケティング:人はなぜ“だれかの体験”に金を出すのか?――クラウドファンディングが育てるもの (3/3) - ITmedia ビジネスオンライン


APBANKができた時も感激したが、クラウドファンディングには感動した。
補助金助成金なんてつまんねーわ、という、法人格も何もないNPOがたくさん生まれて欲しい。

「うまくいったらどんなに素晴らしいことになるか?」

「どうしたら共感してもらえるか?」

「失敗したらどうやって責任取るか?」

これだけでいい。これだけを集中して考えることが大事。行政の顔を伺ってると、ここがとてもとても、おろそかになる。

過激な商店街

Twitpic

NBA(夏休み ばか者 あっちいけ)で街を浄化

商店街はこれから重大な局面を迎える。「おっかないおっさん」は「わが町に強い思い入れを持った人」でもある。誰が責任をもって街を考えるのか、その手腕とセンスが問われる。

街は誰のものか、という議論は不毛だけど、店は誰かの意思とは関係なく入れ替わっていくものだし、人気のあるなしも、うつろいゆくものだ。

ダサいとかひどいとか言われてるけど、大きな複合施設に慣れすぎて、店は客を神のように扱うと思い込んでいるが、街はもっとうごめいていて、変化し続けていて、あやしいものだ。

NBAだとかバスケ通りだとか、さすがにちょっとセンス的にアレだし、過激さも、ちょっとやばい気がするが、センター街はよくも悪くも注目される街。中にいたら、いろいろとおもしろいだろうな。

エコキャップ運動はどうして?

現状を受け入れ、何のためか誰のためかを考えて、仕事をする、ことをしたい。

これは誰のためなのか、なんのためなのか
じぶんがそれをするのはなぜか、なんのためか。


エコキャップ(ペットボトルのフタ)を集めて、貧国の子どもにワクチンを、という活動があって、流行ってるようなのだけど、それを批判するような意見を見た。

「欧米だったら現金を寄付する」とか「輸送にかえってコストやCO2がかかる」とか。

・・・そういうことを言う人も嫌いだけど、一番気に食わないのはそういうことで活動が下火になったり、人がそれをやめてしまうこと。

考えないでやるくらいならやんなきゃいいのだ、とおもう。

もともと、心意気にドネーションしているのではなく、自分の免罪符のために参加してるだけなのだろうと想像してしまう。

職場で、その、エコキャップを集めているのだけど、その場で飲んだものはいれるけど、僕は自宅のものまでは持ち込んだりしない。

現金で寄付したほうが効率がいいと、個人的には考えていて、してるし、「どこへどのように」という説明が、末端の現場まで伝達しないで「途上国のワクチン」なんていう、曖昧極まりない説明では、加担することが躊躇されたし、特に関心もなかったし、もちろん輸送コストや、特に、集める手間を考えたらあほらしいと思っていた。

(ただ、怪しくないかどうかは、一応調べた。)

そう思ってたけど、でも、「それはあほらしいですよ」なんてひとことも言わないし、持ってきてくれた人には「お預かりします」と気持よく言うし、気持よく手伝うし、それは実際本心からなのだ。

動機はどうあれ、ひとがポジティブで楽しい気持ちでやってる小さな明かりに水を掛けるようなことはしたくないから。

でも

もし、

ネガティブキャンペーンに押されて「やっぱやめようよ」となったら、絶対反対するし!ものすごく怒る!

僕がひねくれてるというだけの話なら、まぁそれはそれで納得しないでもないけど。

中二市民活動

世の中にメッセージを伝えるような活動には、共感のデザインが重要なのだ。

「いいことだよね、ぼくも○○をちょっとやってる」
「時間があったらね、やらなきゃとは思う」
「やってるひとは、えらいよね」

という反応に対して危機感を持たなければならない。
それは「いいとは思うけど一緒にやりたくは、ない」という答えだ。

ぬるいのだ。

ある目的を伝えたい、でもそれは相手が望むカタチではない。
思いが強すぎて、上手く伝わらない。不器用な恋心のよう。

たとえば社会運動ならば、強い強いエネルギーを持たなければならないのは勿論、

怒りや正義を表現するだけではなく
経済や政治が選択しにくいものを選びたい
ちがう世界とその可能性を、「一緒に見たい」と思わせることが重要だ。

僕にはどうも「デモをする権利」がそれだとは思えないし
署名を集めてうんぬん、とか、
「まず事務所がないと」とか
挙げ句の果てに「ホームページ」とか言い出す始末。


それに代わるものはまだない。発明されていない。
2000年から10年も経っているのに!!!

「どうしたら共感を得られるか」を、考えていない証拠だと思う。

NPOも市民活動も、「まずカタチありき」で、制度と枠の中に
ぎゅうぎゅうに収められ、「そこから始まるよう、指導され」ている。

一番の能力、唯一の取り柄である、創造力を失っている。



私は、主体的に、目的的に。生き生きと生きることができる。
それが許されている人間は、そのように生きる必要がないだろうか。

私達は、子孫のためや地球のために生きているのでは「ない」。
そうするべきでもない。

命を惜しむ気持ちをなくすことは出来ない。
でも、瞬間「ああ、今日死んだとしたら、なんて幸せだったろう」と思える機会を
どれだけもてるか、そのために、取り急ぎ、生きているような気がする。

「町のパン屋さん」のようなNPO

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-523f.html
たけくまメモ: 「町のパン屋さん」のような出版社

に感じ入った。

不況とか関係なく、一線で働いているメディア業のかたがたが、「まちに出て」くる機会は増えることだろうと思う。

10年以上前に職場の報告書に、「1000人を対象にしたメディアを1000個選択できるような世の中になる」といった意味のことを書いたのだけど、意外に的外れでもなかったか。

DTPや、IT化が活性させたのは、同人誌などの業界で、NPO的な世界は、あまり進化しなかったような気がする。

仕事に、コスト削減にITを活かす、のではなく、作ることが好きな人たちにとっては、無限のエネルギーだったかもしれないが、

「ワードがうまくつかえます」とか「名刺が手作り(なんか文字がカラフル)」とか、

「おじさん達の義務」としてのITは、いいことなかった。

プロを惚れさせ、今までの仕事では得られなかった満足感を、まちで体験できるならば、NPOは「善意のボランティアにささえられて」いなくても、生き残れるように感じる。

善意も熱意も長続きしないエネルギーだけど、こと「モノづくり」においては、熱意の方が有効だ。善意に基づくと(過ぎると)、受け取る相手が見えなくなる。

新しいひとたち。こういう人もいるのか。

http://anond.hatelabo.jp/20090820051957

僕らの世代が感じてきたこととは明らかに違う、彼らの世代の
「生きづらさ」が端的にでていていい。名文。

僕らの世代の生きづらさのキーワードは「癒し」「自分探し」
だったけど、それは共有できないなぁと最近ひしひしと感じていた。

すっげー。すなお、あたまいい。

そして、彼は何を体験し、何になるのか。
楽しいことになるような気がしてならない。

こういう気づきはいい。うらやましくすらある。
いや本人はそう思われても嬉しくないだろうけど。

死ぬ前に後悔すること

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/08/10-654e.html

わー、これ、いい本だなと。

死がもし人生の総決算なのだとしたら、死ぬ前に後悔することをあらかじめ回避できれば、幸せ度UP,ってこと?

おれ、喫煙するし、健康診断しないし、子ども作らないし。
そういえばおでかけもしない。別に遺すほどの偉業も仕事もしない。

日常的に死を考えることは、よりよく生きることに寄与する、とは思う。それだけ。

幸せに楽しくなるために生きるのではなく、
幸せに楽しく在ることのほうが大切で難しい。

瞑想も音楽もヨガも宗教もすばらしいけど、それは個のことだから、僕はまだそれを考えない。

ああいい歳になってほんとうに、いまさら、生きるのってむずかしいなと。