中二市民活動

世の中にメッセージを伝えるような活動には、共感のデザインが重要なのだ。

「いいことだよね、ぼくも○○をちょっとやってる」
「時間があったらね、やらなきゃとは思う」
「やってるひとは、えらいよね」

という反応に対して危機感を持たなければならない。
それは「いいとは思うけど一緒にやりたくは、ない」という答えだ。

ぬるいのだ。

ある目的を伝えたい、でもそれは相手が望むカタチではない。
思いが強すぎて、上手く伝わらない。不器用な恋心のよう。

たとえば社会運動ならば、強い強いエネルギーを持たなければならないのは勿論、

怒りや正義を表現するだけではなく
経済や政治が選択しにくいものを選びたい
ちがう世界とその可能性を、「一緒に見たい」と思わせることが重要だ。

僕にはどうも「デモをする権利」がそれだとは思えないし
署名を集めてうんぬん、とか、
「まず事務所がないと」とか
挙げ句の果てに「ホームページ」とか言い出す始末。


それに代わるものはまだない。発明されていない。
2000年から10年も経っているのに!!!

「どうしたら共感を得られるか」を、考えていない証拠だと思う。

NPOも市民活動も、「まずカタチありき」で、制度と枠の中に
ぎゅうぎゅうに収められ、「そこから始まるよう、指導され」ている。

一番の能力、唯一の取り柄である、創造力を失っている。



私は、主体的に、目的的に。生き生きと生きることができる。
それが許されている人間は、そのように生きる必要がないだろうか。

私達は、子孫のためや地球のために生きているのでは「ない」。
そうするべきでもない。

命を惜しむ気持ちをなくすことは出来ない。
でも、瞬間「ああ、今日死んだとしたら、なんて幸せだったろう」と思える機会を
どれだけもてるか、そのために、取り急ぎ、生きているような気がする。